保命酒(ほうめいしゅ)について
保命酒(ほうめいしゅ)とは

江戸時代より続く健康薬味酒のことで、ハーブを原酒に浸し、充分な月日をかけてゆっくりと成分を浸出させて醸造されています。
保命酒(ほうめいしゅ)の起源

保命酒は、1659年(萬治二年)に大阪の 生國魂(イクタマ)神社の傍らから、鞆の津に移り住んできた、中村氏によって、初めて醸造したものとされています。
その後、延宝元年に幕府が酒造株の制度を設けて以来、その醸造権が永い間中村家の独占となっていました。
また畳の備後表と共に、禁裏品に指定され、幕府への献上品、諸大名間の贈答用に用いられ、名声を博していました。
中村家は明治33年廃業し、現在の四業者は明治以降に操業、四社共それぞれの味で、味めぐりをお楽しみください。
保命酒(ほうめいしゅ)の歴史

保命酒は、大阪生玉神社の近くで開業していた医師中村壤平利時の指導により、長男の吉兵衛吉長が焼酎製薬酒を製造していたのがルーツとされています。
吉兵衛は1653(承応2)年、浪速の大洪水により甚大な被害を被り、再興をあきらめ鞆津酒造業・津田六右衛門をたより、1655(明暦元)年に鞆津に来ました。
1695(万治2)年、鞆町奉行に願い出て、これまでの薬法をもちいて焼酎製薬酒をつくり「十六味地黄保命酒」と名付けて製造販売を始めました。
これが、「保命酒」の起源と言われています。
当時の薬酒業(医師・薬剤師・薬販売業・酒類販売業)は、製品として「保命酒」「せんきん酒」「梅酒」「忍冬酒」「桑酒」「しそ酒」「菊酒」「あやすぎ酒」「せうせう酒」「延寿酒」「枸杞酒」「泡盛酒」「焼酎」「みりん」「普通酒(清酒)」「練酒」などの多彩な酒類・薬酒が酒・医薬品として製造販売が盛んに行われていたようです。
(当時の鞆津商人は京都で上記の種類を販売していました)
この本家(中村家)は屋号を「生玉堂」となのり、明治に廃業されても、30年くらい前まで、薬局として薬販売業を営んでおられました。
さらに明治以降に中村家の専売制もなくなり、また中村家が酒造業を廃業されたのち、地元資本数社がそれぞれ「保命酒」製造業を起業し、それぞれ独自の原料を使用し現在に至っています。
現在の製造業者は4社あり、「八田保命酒舗」は1908(明治41)年創業した、明治以降の業者の一つです。
しかし太平洋戦争時の物不足・戦死(人不足)により一時製造を休止していた時期も在り、再興した業者でもあります。
※出典は、「福山市鞆の浦歴史民俗資料館活動審議会」発行の特別展観「保命酒展」から一部引用。
保命酒(ほうめいしゅ)エピソード
安政元年三月、横浜で日米和親条約が締結された際、時の老中備後福山藩主阿部正弘公により宴に用いられ、「大変立派なリキュールで感心した」とアメリカ海軍提督ペリーの記録に残っています。
また朝鮮通信使を始めとし、江戸時代の漢学者頼山陽、多くの文人墨客に愛され、保命酒をたたえる多くの詩文が残されています。

